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五味洋治のページです。主に韓国での北朝鮮関連報道を訳していますが、日本語で紹介されない記事を私の目でセレクトしています。私の執筆活動、経歴についても掲載しています。最近のお勧めは、北朝鮮の軍事関連報道です。日本のメディアが伝えていない細かなものまで拾っています。私がかつてここに書いた金正恩の性格分析は今も十分通用します。筆者へのご連絡はこちらをクリックしてください。コメントは実名以外受け付けません。

2010年8月27日金曜日

毓文中学校と金日成

 

 金正日総書記が来たというので一躍有名になったこの学校のことは、金日成回顧録に詳しく出ている。

昔読んで付箋が張ってあったのだが、すっかり忘れてしまっていた。

簡単に書いておこう。日本語版第1巻の161ページから記述は始まっている。

市内の新興層によって建てられた傾向のよい学校ということで選んだという。

当時の校長は、李光漢といい、天津南海大学で、周恩来首相の同級生だった人物だということが後になって分かる。

当時日本の軍警ににらまれていた朝鮮独立運動家は吉林に逃げ込んでいた。

ここで金日成は「マルクス・レーニンをさらに深く研究した」という。

また、吉林毓文中学校在学中の1927年8月27日、打倒帝国主義同盟(トゥドゥ)を、より大衆的な組織である反帝青年同盟に改編し、8月28日には朝鮮共産主義青年同盟を結成したという。

自伝には、こういう活動とあわせ、金日成が読書にいそしんだことが記述されている。

その後、日本と中国の反動軍閥が学生活動家を拘束、金日成も投獄される。そこで祖国の将来を思い、30年5月に釈放されたという。

金正日総書記は、吉林市の北山公園も訪ねている。ここでは週末に金日成がよく読書発表会が開いていたという。

どこまでが脚色かは不明だが、ここも中朝関係では欠かせない場所ということなのだろう。

 

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祖国解放の偉業を成し遂げた不滅の業績

抗日大戦を勝利に導いて

1945年8月15日は、朝鮮人民が日帝の軍事占領を終わらせ、奪われた祖国を取り戻した民族再生の日である。

今日も朝鮮人民は、解放の万歳の声が全国を震撼させた歓喜のあの日を胸熱く振り返り、祖国解放の歴史的偉業を実現した民族の英雄金キム日イル成ソン主席に限りない感謝を贈っている。

意義深い朝鮮の解放65周年に際し、本編集部は金日成主席の抗日革命闘争史の概要を紹介する。

1.朝鮮革命の進路

祖国をよく知らねばならないという父の意を体し、11歳の幼い身で100里の道を歩いて祖国に帰った主席は、母の実家のある七谷の彰徳学校に編入してから2年後のある日、父がまた日本の警察に逮捕されたという知らせを受けた。

その日で万景台の生家に寄って一晩泊まり、身支度を整えて100里の旅に出た主席は、1925年2月3日、朝鮮が独立しなければ二度と帰るまいと固く誓いながら鴨緑江を渡った。

1926年6月、朝鮮の反日民族解放運動の卓越した指導者であり民族主義運動から無産革命への方向転換の先駆者であった父の金亨稷先生は、朝鮮国民会の事件で日本の警察に逮捕されたときの拷問と、その後また逮捕されて脱出するときにやられたひどい凍傷の後遺症、革命活動の過労によって32歳を一期に死去した。

主席は、父から「志遠」の思想と3大覚悟、同志獲得の思想、2挺の拳銃を遺産として譲り受けた。

その後、撫松第1優級小学校を卒業した主席は、父の知友たちの斡旋で1926年6月中旬、民族主義者が独立軍の幹部養成を目的に樺甸県に設立した軍事・政治学校である華成義塾に入学した。

義塾に入りはしたが、すぐそこの教育が気に入らなくなった。義塾での教育が民族主義思想と旧式の軍事教練だけであったからである。

主席は、革命の真理を探求しながら朝鮮革命の正しい道を模索した。

一方、民族主義運動に幻滅を抱いて真の革命の道を渇望する華成義塾の先進的な青年学生に革命的影響を与えるとともに、革命の道で生死をともにできる同志を一人二人と結束していった。

こうして1926年10月17日には樺甸で打倒帝国主義同盟(略称「トゥ・ドゥ」)を結成した。これは朝鮮革命の新たな出発を告げる歴史的な宣言であった。

主席は、1927年1月から吉林毓文中学校に籍を置いて革命活動を繰り広げた。

主席は、『共産党宣言』や『資本論』など数多くの革命的な図書を耽読しながら先進思想を深く研究する一方、秘密読書グループをつくり、討論会、講演会、雄弁大会などを催して青年学生のあいだに先進思想を普及した。

これとともに、彼らを革命組織にしっかり結束する活動も精力的に推し進めた。

まず、合法的団体として朝鮮人吉林少年会をつくり、朝鮮人旅吉学友会を朝鮮人留吉学友会に改編し、打倒帝国主義同盟をより大衆的な組織である反帝青年同盟に改編して広範な青年を結束した。そして、これらの組織を統一的に指導する前衛組織である朝鮮共産主義青年同盟を結成した。

主席は、吉林市内と周辺の農村地域はもちろんのこと、広い地域に組織網を急速に拡大していった。

主席は、吉林毓文中学校内の反動的な教員に反対し、民主的秩序を固守するための同盟休校、1928年秋の吉会線鉄道敷設反対闘争と日本商品排斥闘争を組織し勝利に導いて隊伍を実践闘争のなかで鍛えた。

1929年秋、主席は中国の反動警察に逮捕され、吉林監獄で鉄窓生活を送った。

主席は身はたとえ獄中にあっても、一方では囚人はもちろん看守まで教育し、外部の革命組織に対する指導を続け、もう一方では朝鮮革命の進路を模索した。

1930年5月初めに出獄した主席は、分派・事大主義者の起こした極左冒険主義的な5・30暴動の後遺症によって破壊された革命組織を立て直し、6月30日には卡倫で共青および反帝青年同盟の幹部会議を招集し、『朝鮮革命の進路』という歴史的な報告を行った。

主席は報告で、朝鮮人民の反日民族解放運動が失敗を繰り返している主な原因は、民族主義者や初期共産主義者が、上層部の幾人かが集まって空論に明け暮れ、実際の革命闘争に人民大衆を奮い立たせず、自国人民の力を信じず外部勢力に期待をかけていることにあると辛辣に分析、総括し、朝鮮の革命家は人民大衆を革命の主人と見なす確固たる立場と態度をもつべきであると指摘した。

また、朝鮮革命の性格と基本任務、動力と対象を独創的に規定し、それに基づいて抗日武装闘争路線と反日民族統一戦線路線、党創立方針を提示した。

このときから朝鮮革命は、金日成主席の示した主体的な革命路線と科学的な戦略・戦術に基づいて進められる新たな発展の段階に入ることになった。

主席は、遅滞なく卡倫会議の方針を貫徹するための実践闘争に移った。

7月3日、卡倫で最初の党組織である建設同志社を結成し、青年前衛を各地に派遣して基層党組織を設けるようにした。

7月6日には伊通県孤楡樹で初の革命的武装組織である朝鮮革命軍を結成し、武装グループを朝鮮国内と満州の各地に派遣して、活動拠点をつくり、大衆を革命化し、武装闘争の経験を積み、武装隊伍を結成するための準備を整えるようにした。

この頃から革命同志と人民は、主席を金日成同志と呼ぶようになった。

初めは、朝鮮人民を暗闇から解放の夜明け道に導く明星になってほしいという意味で「一星同志」または「ハンビョル同志」と呼び、後には朝鮮の明るい太陽になってほしいという念願から「金日成同志」と呼ぶようになった。

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