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2013年4月13日土曜日

金正恩の性格分析②

正恩が正式に後継者になるのは2012年4月15日だが、前の年の2011年12月17日に父親が急逝しており、最高司令官となって、事実上後継者となった。

この時点で韓国はどうみていたか。京郷新聞の記事で見てみよう。

入力:2011-12-19 22:09:01〓スジョン:2011-12-20 09:24:30
北韓・韓半島情勢
29才金正恩,よどみない性格・勝負欲…軍部は掌握したように
チョン・ビョンヨク記者junby@kyunghyang.com

金正日(キム・ジョンイル)北朝鮮国防委員長が去る17日突然死亡し,後継者の息子金正恩労働党中央軍事委員会副委員長の負担は大きくなった。


わずか29才の金正恩が現代政治史に類例がない3台後継世襲を終えて名実共に北朝鮮権力1人者席を守らなければならないためだ。
軍部や党で経歴が浅い金正恩が金委員長の後光が消えた状態で一人立ちができるのか試験台に立ったのだ。

金正恩は昨年9月後継者で公式化されて1年2ケ月余しかならない。
短い後継授業期間に比べて担わなければならない荷物は重い局面だ。
金正恩は昨年9月党代表自晦で公式言及される前には特別に注目されることもない三番目の息子だった。


‘金正雲’から改名された金正恩は金委員長の二番目夫人コ・ヨンヒ(2004年死亡)の次男に伝えられる。


腹違いであった一番上の兄の金ジョンナムが後継者から弾かれ,コ・ヨンヒの最初息子金正哲まで除外されながら,金正恩が後継者となった。


出生は当初1983年と知らされたが,北朝鮮で1982年で直したという。
正統性向上の側面で1912年生まれの金日成主席,1942年生まれの金委員長と出生を合わせたと解釈される。


金正恩は1993年夏から2000年秋までスイスの公立学校に‘パクウン’という仮名で留学した。
留学の時米プロバスケット(NBA)が好きで,数学が上手だったし,英語・ドイツ語など外国語も結構すると伝えられる。


英国日刊紙テレグラフは、金正恩が留学時代普通の10代と同じようにコンピュータゲーム,ブランド運動靴,アクション映画などに関心を示したと昨年9月報道した。


帰国後2002年から2007年4月まで軍幹部養成機関の金日成軍事総合大学特設班を修了したのが金正恩の唯一の軍事部門経歴と知らされた。


11年間金委員長の専属料理人を過ごした日本人藤本健二は著書<金正日(キム・ジョンイル)の料理人>エ“金正恩が10代にも酒・タバコをするなど遠慮のない性格で、勝負欲また格別だった”と描写した。


若い年齢と短い後継授業期間せいで金正恩後継体制の不安定性はいつも話題に上がった。
軍・行政経験が殆どなくて,経済難という条件が否定的見解を育てた。


特に2008年8月脳卒中で倒れた金委員長の健康は最も大きい変化の要素であった。
しかし金委員長死亡直前までしても専門家たちは金正恩後継体制を不安定になるとはみなかった。

金委員長の健康回復説に重さが傾いたし,約1年ぶりに後継世襲作業が順調に軌道に乗ったためだ。


後継に出た後1年間金委員長の公開活動152回中、軍事分野26回を含んで,100回を付いて回りながら,短期集中型の後継授業を受けた。


金正恩は新設になった党中央軍事委副委員長職を通して,軍部支持を確保したと分析される。

後継者に出て12日ぶり昨年10月10日党創建65周年記念閲兵式の時金委員長と公開の場に上がった場面が外信記者らに生中継された。


金正恩の地位が金委員長劣らない姿も公式媒体に伺えた。

朝鮮中央TVはロシア・中国訪問を終えて8月28日戻る金委員長を迎えに行った金正恩が頭も下げないで片手で握手する場面を送りだした。

2009年1月後継者で内定した後,称賛の歌の<パルコルム(足取り)>が流布しながら,偶像化作業が進行されるなど金委員長生前に金正恩の位置づけは強固だと見られた。


昨年11月18日労働新聞に出てきた創成軍(郡)工場現地指導をはじめとして,北朝鮮あちこちに3代世襲を象徴する‘首領福,将軍福,大将福’の文字を入れた垂れ幕やポスター,碑石もできた。
朝鮮中央TVが6月11日放映した映画には‘尊敬する金正恩大将同志のためで,ある命捧げて戦おう’というプラカードまで現れた。

5月,8月金委員長の訪中,ロシア訪問の時金正恩が残って北朝鮮を守ったという事実も‘内政’領域には後継体制がだいぶ強固だということと解釈された。

金委員長葬儀委員会で一番先に名前を上げながら‘指導者’に浮び上がった金正恩はひとまず後継者地位を再確認させた。

しかし最も大きい後ろ盾お父さんが消えた現実で金正恩は自ら後継体制を完成して住民たちの食べ物を解決しながら‘強盛大国’という宿題を解かなければならない荷を背負うようになった。

10代から西洋文物に接して,金委員長が関心を見せた改革・開放にさらに積極的に出るという観測がある。

しかし内外で後継体制安定が急務の金正恩が即開放に出るのか疑問も提起される。

以下次回

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