
今年、北朝鮮が発射したミサイルの一覧。飛行距離が結構コントロールされているのが分かる。発射間隔も短くなっている。
龍谷大学で行われたシンポジウムでの、私の発表文です
●撤去された案内板
東京新聞に勤務する私は、韓国に語学留学した後、金大中大統領時代にソウル駐在をした。これが縁となって、いままで朝鮮半島問題を専門に取材してきた。現在は日韓関係に関する社説を書く担当をしている。ただ、今年に入って、日韓関係がこじれてきたことから、社説を書く上での立ち位置に苦心することが多くなっている。そんな中私は、日本で安重根、韓国では、安に暗殺された伊藤博文に注目し、再評価することで、日韓関係の新たな基礎を築こうと提言したい。
その前に、まず今年4月、宮城県で起きたことを報告したい。北西部、栗原市にある東北自動車道若柳金成インターチェンジ付近に建っていた案内板が、ひっそりと建て替えられたのだ。
元の案内版は、浅野史郎前知事時代の2000年に、日韓ワールドカップを機に、日韓友好の証しとして、宮城県によって設置されたもので、「安重根記念碑(大林寺)4.7キロ」と、日本語とハングルで書かれていた。安を敬うための表示板ではなく、あくまでの記念碑の場所を伝える案内板だった
よく知られているように、大林寺は旅順監獄で安の監視役だった憲兵、千葉十七の菩提寺である。安は、処刑前に千葉に遺墨を渡した。この縁で大林寺に安の記念碑が設置され、日韓関係に関心を持つ人たちが数多く訪ねていた。毎年9月には法要も行われている。
新たな看板は、最近オープンした観光施設「栗駒山麓ジオパーク」を中心に「栗駒山」「伊豆沼」など、近くの観光地を案内する内容となり、安重根の文字はなくなった。
この看板の建て替えは、地元でもほとんど関心を呼ばず、新聞でも小さく報道されただけだった。
ところが2015年、県知事の会見でこの案内版に関して、記者が次のような質問をしている
「県が設置している案内板は、初代韓国統監伊藤博文を暗殺した安重根の記念碑を案内するものである。安重根については、(日本)政府は犯罪者という見解を示しており、そのような人物の案内板を県が設置するのは問題であり、撤去すべきだという声があるが、こうした意見に対して知事はどのように考えるか」というものだった。
●安を「しっかりとした人間」として扱った日本
これに対し、村井嘉浩知事は、こう記念碑と案内版の意義を、こう強調していた。
「千葉十七さんが非常に大切に一人の死刑員(安のこと、筆者注)を一人の人間として大切に扱ったということです。つまり日本人は、日本にとって犯罪者であっても、虐殺するのではなくて、安重根氏をしっかりと1人の人間として扱って、そして刑を執行したということです。その象徴的な人物が千葉十七さんであったということから、日韓の友情を深めていただくためにでき上がった 記念碑、場所であり、そして、韓国の方にぜひ立ち寄っていただいて、皆さんが思っているように日本は決してひどい国ではないんだということをお伝えする意味もあったというふうに聞いております」
その上で村井知事は、案内板を撤去する考えがないことを表明した。
「私は、一方的にそういった切り口だけであの案内板を否定するということは、これから日韓が共に前を向いて歩んでいこうとしている中で、(案内板を)撤去することが日韓にとって総合的に考えますとマイナスになるのではないかということから、撤去には踏み切っていないということでございます」
安重根について、ここ数年「日本の指導者を殺害したテロリスト」と呼ぶことが多くなった。しかし実は、2015年までは、安と彼を取り巻く日本人についてのエピソードは、村井知事の言葉のように、奇跡的な日韓の友情物語だと認識されていた。つまり、安の罪は許せない行為だが、彼を丁重に扱った日本側の姿勢は評価でき、日韓のきずなの象徴だ、というものだ。
ところがここ数年、全く違う動きが生まれている。案内版問題は、県知事への質問があった同じ年の2月、地元選出の国会議員が国会で取り上げている 。公費で、テロリストの記念碑の場所を示すようなものはおかしいという指摘だった。
この時、答弁に立った太田昭宏国交相は「県の判断で設置されたものだ」として、国として介入する考えがないことを表明しているが、村井知事としても抗しきれないと判断し、刺激のないかたちで建て替えたのだろう。
●安に対する正反対の評価
ほかの発表者も触れるだろうが、もう一度、安重根について考えて見たい。
1909年(明治42年)10月26日、中国東北部のハルピン駅で、前韓国統監で元首相の伊藤博文が狙撃され、現場で死亡した。撃ったのは、韓国独立運動の指導者の安だった。日本では「テロリスト」とも呼ばれ、韓国では「独立の義士」「英雄」という正反対の評価を受けている。ただ、安の思想に共鳴し、評価した日本人も少なくなかった。
10年ほど前、私はハルピン駅を訪ね、現場となったホームを歩いてみた。安が発砲した地点には小さなマークが埋め込まれていた。駅員に確かめると、「先輩から聞いたことがあるが、狙撃現場なのかはっきりしない」と話していた。
すっかり忘れ去られていたが、2014年1月、同駅に安を顕彰する展示館ができた。これについて日本政府は、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」「前世紀の事件について一方的な評価に基づき、韓国、中国が連携するような動きは、地域の平和と協力の関係の構築に資するものではない」(菅義偉官房長官)として、中国と韓国に外交ルートを通じて抗議したという。
個人的にはとても残念な思いだった。テロリストとして切り捨てる前に、もう一歩理解する姿勢を見せることで、日韓の関係も変わってくると思えたからだ。この展示館ができた後、日本政府は、安を明確に「テロリスト」と呼ぶようになった。背景には、最近の日本政府の歴史認識があるのは間違いない。
その後、私は実際にハルピンを訪問し、駅の展示館を訪ねてみた。中国の指導者が安に言及した言葉が紹介されていたが、格別新しい内容があるわけではなく、安の人生を簡単に紹介しているだけだった。展示スペースといった印象だった。日本政府が神経質に反応するような内容ではとてもなかった。
私は2019年の夏に、ドイツのベルリンやミュンヘンを訪ね、戦争や分断を伝える記念館を訪ねてみた。ドイツでは、ナチス、ホロコーストなどを克明に記録し、一般に公開している。これこそ国際的な信頼を得る行動だろう。過去に蓋をするよりも、自分たちの手で整理し、公開することが大切だ。日本政府は、むしろ安に関して持っている資料を、公開、展示し、犯行が行われた時代背景を記憶すべきではないか。
●日本に渡った200点の遺墨
再度、1909年に時間を戻どす。安は事件後の取り調べで、犯行について15の動機を挙げた。韓国統監時代の施策への批判が中心だった。伊藤とは直接関係ない理由も含まれていた。
そもそも、安は伊藤の顔を知らなかった。一番地位の高そうな人を狙ったのだった。
その後、旅順監獄に収監されたが、罪を率直に認め、堂々とした態度に日本人の検察官や判事、看守は感銘を受けた。
その1人が看守の千葉十七だった。千葉は当時27歳、安は30歳。千葉は「安には人間的度量があった」と語っていた。
安は、刑務所にいた半年間で自伝『安応七歴史』と『東洋平和論』という2冊の本を書いた。 取り調べを担当した警視のすすめによるものだった。安の裁判の最高責任者である平石氏人高等法院長も、東洋平和を願う安の話に「一生また聞くことができない説」と賞賛していた。
ところが、予想以上に早く死刑が執行され、東洋平和論は執筆途中で終わっている。刑の執行を知った人たちが、書を欲しいと絹や紙を数百枚持ってきた。親しかった千葉には「為国献身 軍人本分」との書を残した。先に紹介したように宮城にある千葉の菩提寺の大林寺には、この文字を刻んだ記念碑が建てられている。書は、1970年に安の遺族に返された。
安は、処刑前に計200点以上の書を残したとされる。約50点はすでに発見されているが、残りは行方が分からない。日本のどこかで家宝として保存されているのだろう。長い時間が経っており、保管されていることも忘れられている可能性がある。この遺墨も、将来日韓をつなぐ遺産になるに違いない。
●安の思想を評価したのは日本人だった
韓国では、安の「行動」が賞賛されるが、彼の「思想」を掘り起こしたのはむしろ日本の研究者だったことを忘れてはならない。『安応七歴史』と『東洋平和論』は、日本人が書き写した本が広まり、存在が知られるようになった。
では安は、東洋平和論を通じて何を訴えたかったのか。
そこには、円満な金融体系のため、東洋の共通の銀行を作り、各国共用の通貨を作る。日、清、韓の三カ国の若者が共同の組織を作り、2カ国語以上の語学を学び、友邦あるいは兄弟の観念を形成することなどが書かれていた。
東アジアで、現在の欧州連合のような連合体を夢見ていたわけだ。安の父は、日本への留学を夢見たこともある人だ。そして、安自身も、日露戦争で日本が勝利したことを知ると、快哉を叫んでいた。東洋のリーダーとして日本に期待をしていた。 決して日本を敵対視していたわけではない。
また、安らの弁護に当たった水野吉太郎弁護士は、裁判の中で安の行動を、幕末に水戸浪士が、開国を進めた江戸幕府大老、井伊直弼を殺害した「桜田門外の変」に似ていると指摘し、こう語っている。
「被告は実に国家存亡の秋(トキ)であると信じたのであります。同じく事を誤つたと致しましても事態の上から考へまして、遥かに被告に同情すべき点があるのではありませぬか。(中略)如此(かくのごとき)韓国臣民として居ります被告が、其報国の赤心に於(おいの志士に譲らざるものがあると致しますれば、亦同情の傾注を吝(おし)む事は出来ない次第と考へます」
つまり、幕末の志士に通じる心情から犯行に及んだ。政治犯ではなく、単なる殺人犯であり、情状酌量の余地がある。さらに「類例なき極刑を以て被告に臨みましたなれば、韓国民は非常の疑惑と憤激を呼びましょう」とも述べ、韓国人の心情を正確に見通していた。
弁護人なのだから、この程度のことをいうのは当たり前だと考えるのは間違いだろう。水野は、日本への帰国後も、安への高い評価を変えていない。
安の行動に対し、日本の中でも、その動機を理解する人たちがすくなからずいたことを示している。事実、最終的に安は、政治犯扱いではなく、単なる殺人罪で死刑となったことを確認しておきたい。
当時と比べ、我々はいま余裕を失っている。安重根について政府レベルで「テロリスト」と呼び、記念碑の場所を示す公費による案内版の撤去を求めるなど、目の敵にしている。極めて残念なことだ。
●韓国でも伊藤博文の再評価の動き
一方伊藤は、日本が韓国を併合することに消極的な発言をしていた。「財政的な負担になる」というのが理由だった。さらに、日本の指導によって韓国の自治、独立を果たすべきだと考えていた。朝鮮の人たちに対しても、こう評価していた。
「才能において決して(日本人と)お互い劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのではなく政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても、質においても不足はない」 。
伊藤博文は、日本では千円札に顔が描かれたほどの有名な歴史的人物にも関わらず、これまで研究対象としてあまり取り上げられてこなかった。
「昨日の敵と手のひらを返したかのように結託する変わり身の早さ」のため、「アカデミズムの世界では、伊藤の功績を高く見積もることに消極的な傾向が強い」 からだ。
政治家としては有能でも、強い思想が感じられず、魅力がないということだろう。もちろん、韓国併合のシンボル的人物であることも影響しているに違いない。
伊藤は、韓国では「植民地侵略の元凶」とされていたが、近年、その評価は、日本で変わりつつある。伊藤は、保護国の統治者として、多様な価値観を尊重する比較的開放的な姿勢で韓国に接し、日本人と韓国人が融合することを目指した。
その証拠に伊藤はさらにまた伊藤は、1907年4月には韓国の日本人教員に対し、韓国語を身につけることや、儒教.キリスト教などの教」の善悪を言わないようにすべき等の訓示を行っている。1908年に東京で、少年の韓国皇太子(李王世子、李垠)に和服を着せて、二人で写真に収まっていた。
伊藤の生い立ちや明治憲法を制定し、議会設置を実現した政治手腕。さらに伊藤が殺害された時、韓国内にも惜しむ声があったことなどをそのまま記述している本も出てきた。 韓国で制作された安重根ミュージカル「英雄」は、伊藤博文を人間的に描いている。
安と伊藤の2人を、永久に「テロリスト」「植民地支配の元凶」と決めつけ、歴史の彼方に葬るべきではない。事件から今年、110年となる。今回、龍谷大学で開かれたシンポジウムのように、2人の思想と人間としての深みを日韓で冷静に考えることこそ、歴史認識の溝を埋める、大切な一歩となるだろう。
2015年6月1日 https://www.pref.miyagi.jp/site/chiji-kaiken/kk-150601.html
2015年2月27日 参院予算委員会 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/189/0014/18902030014003a.html
https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg9177.html
永田町の憲政記念館には、安重根が伊藤博文を暗殺した際に放った銃弾のうち1発が展示されている。
『伊藤博文と安重根』(佐木隆三、文春文庫)
『わが心の安重根』(斎藤泰彦、五月書房)
日本語訳は『安重根自叙伝・東洋平和論』(愛知宗教者九条の会)に収録されている。
『伊藤博文と安重根』(佐木隆三、文春文庫)
『知性人伊藤博文 思想家安重根』(金文学、南々社)
『安重根事件公判速記録』(満洲日日新聞社編、批評社)
『共同研究 安重根と東洋平和―東アジアの歴史をめぐる越境的対話』第4章 安重根遺骸発掘の現況と課題 (龍谷大学社会科学研究所叢書)
『伊藤博文』(瀧井一博、中公新書)
同上
『伊藤博文をめぐる日韓関係』(伊藤之雄、ミネルヴァ書房)
『伊藤博文』(イ・ジョンガク、東亜日報)

2019年11月5日に行われた文議長のあいさつ文の中で、徴用工に関する部分を起こしました。ご参考に。
口強制徴用被害者などについて韓国の国会が先駆けて立法する
私が提案する法律案は、韓国国民の被害や心の痛みを韓国が先駆けて癒すという前提から始めました。かつて苦痛を強いられた我が国民を国が癒さなければならない時期に至り、もはや大韓民国の国力も十分それに相応しくなったと思います。ちょうど、今年は、上海臨時政府樹立100周年になる節目の年でもあります。
法律案に具体的に盛り込まれるべき内容は、第1に、強制徴用被害者問題や慰安婦被害者問題など韓日の間の葛藤を根本的かつ包括的に解決する内容でなければなりません。
第2に、韓国人法院の判決を受け、すでに執行力が発生した被害者と、将来的に予想される同じ内容の判決で勝訴した被害者に「慰謝料」が支払われれば、日本企業の賠償责任が「代位返済」されたものとみなされ、賠償を受けた人に対しては民事訴訟法による|裁判上の和解」が成立したものと、みなされ、長い間続いた議論が終結する根拠が盛り込まれなければなりません。
第3に、未来志向的な韓日関係に向けて韓日請求権協定などに関する全ての被害者の賠償問題を一定期限を定めて一概に解決する規定を盛り込む必要があります。当然、関連の審議委員会も設置しなければなりません。
財源の確保については、基金を設置するものの、両国の責任ある企業が賠償する1+1方式を原点から見直す方向が望ましいでしょう。
基金の財源は、第1に、両国企業の寄付金でつくるが、责任ある企業だけでなぐその他の企業まで含め自主的に袼付する形であります。第2に、両国国民の民間募金です。第3に、現在残っている「和解-癒し財団」の残高60億ウォンを含めることであります。
最後に、こうした基金を運用する財団に対して、韓国政府が拠出できる根拠条項を作らなければなりません。このように被害当事国である韓国が先駆けて立法を行い、韓日両国が対立している懸案について包括的に協議を行い、譲歩できる名分を与え、和解と協力の糸口がつかめることを期待します。
両国政府は、今すぐこの提案に対する立場を示すことは難しいかも知れません。いずれにせよ国民の代議機関である両国の議会が緊密に協議し、細かく議論して進めていかなければなりません。
日本側の積極的な応えや参加も期待しております。勿論、両国国民の基準に及ばず、みんなから非難されるかも知れないこともよく分かっています。しかし、誰かは提案し、話すべきです。これもやはり私の责務であると考えます,,両国国民の理解と支持が求められていると思われます。
口東京五輪の成功祈願、韓日中での2年おきに五輪が開催される意味は大きい
尊敬する皆様!
北の核問題に対する北東アジアの国際情勢が容易ではない状況にあります。ここ2年間で南北問で4回の首脳会談がありました。米朝問では2回、中朝間では5回、露朝間では1回など、北東アジア域内諸国においては、首脳会談が頻繁に行われました。最近、こうし
たトップダウン方式の外交が日常化しています。
しかし、最も立場が似ている国同土である韓国と日本で首脳会談がほとんど行われないのは、非常に残念でなりません。
韓日両国は、外交安保レベルで互いに切っても切れない関係です。特に、北東アジアの安定と繁栄、韓半島の平和ブロセスを追求する上で、口本が堅持する非核.平和原則は、いくら強調してもしきれません。
さらに、2020年東京五輪があと、1年も残っていません。アジアの韓日中で2年おきに五輪が開催されるのは、前例のないことであり、大きな意味合いがあると思われます。北東アジア地域の平和と安矩はもちろん、世界の平和を主導する契機につなげるべきであります。そのためにも東京五輪が必ず成功するよう祈り、そのためにも、韓门両国の協力が重要であると考えます。
〇第2の金大中.小渕宣言、文在寅‘安倍宣言を希望
皆さん、外交とは、可能性のアートで、政治は、生き物だといわれています。
文在寅大統領の選挙区は釜山です。安倍総理の選挙区は下関です。今も両地域を連絡船が行き来していますが、この船の上で行われる韓日首脳会談を想像してみましょう。南北、米朝首脳会談に匹敵するくらい全世界からの注目を浴びると思います。
この首脳会談を通じ、まず第1に、国交正常化の決着を付けた韓日請求権協定と1998年に金大中大統領と小渕首相とが署名した1日韓共同宣言」を尊重し、第2に、日本のホワイトリストからの韓国排除と韓国の終了措置を元に戾し、第3に、両国の懸案問題(強制徴用エ問題など)を立法によって根本的に解決する妥結が行われることを期待します。
韓日酋脳が近いうちに会って「21世紀の新しい韓日パートナシップ宣言」に勝る第2の金大中.小渕宣言、「文在寅.安倍宣言」が出されることを希望します。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14970 転載です <参考資料> 朝鮮労働党機関紙『労働新聞』は、毎年1月3日頃に「新年の辞」の基本体系を理解するための要旨を掲載している。参考までに、その全文翻訳を添付する。 「今年の新年の辞の基本内容...