日韓会談メディアは何を伝えたか
五味洋治
国交正常化を目指す日韓会談の交渉過程や日韓基本条約(以下、日韓条約と表現)締結の前後に、メディア、中でも日本の新聞が、何を、どう報道したのかを検証する。
その前に、会談が終了した後に作成されたある資料をご紹介しよう。1966年に内閣官房内閣調査室が作成した「日韓条約をめぐる内外の動向」という小冊子である。
国会図書館に、デジタル資料として収蔵されている。その存在は知られており、いくつかの研究書に引用されている。例えば、1966年に発行された『検証 日韓会談』(高崎宗司、岩波新書)も、参考文献の1つとして挙げている。
この小冊子は、4部に分かれ、205ページに及ぶ。日韓会談を扱った新聞、雑誌の記事、単行本、映画、パンフレット、ビラ、抗告、講演会、大学でのゼミまで徹底的に記録している。
作成の目的については「日韓条約および諸協定が締結されるに至った経緯、ならびに日韓会談の粉砕および日韓条約の批准阻止を目指して、日韓両国において展開された反対運動をできるだけ客観的にまとめ、あわせて日韓条約締結の意義、反対運動の本質等について、若干の評価を加えたものである」説明している。
そして「この記録が今後の日韓関係促進に際してささやかな〝友好メモ〟になれば、はなはだ幸せというほかはない」と趣旨を述べている。
新聞や雑誌記事については会談の過程で、日韓双方でどんな報道がなされたのか、そのポイントを整理し、重要な部分を抜き出している。
私がこの小冊子で特に注目したのは、日韓会談をめぐる報道の全体的な分析の部分である。
まず、「日韓交渉は14年にわたる長期の懸案だっただけに、その間に刊行された日韓関係刊行物は相当の量に上っている」と前置きしている。
そして「単行本・雑誌・パンフレット等に見られる日韓関係の特異性は、長期にわたって継続された日韓会談そのものの特徴を反映しており、会談の進展と中断に呼応して、断続する傾向を示している」と指摘している。
時代的にも、国民的反対運動を巻き起こした1960年の日米安全保障条約の改定問題との比較を試みている。
その結果、「極めて顕著な傾向は、(中略)一部の専門研究誌を除いて、一般総合誌においては、批判論・反対的論調が比較的少なく、問題意識も希薄なことである」と総括している。
なぜ安保闘争に比べ、批判が少なく、問題意識も低かったのか。この小冊子の中に、答えが書かれている。
「このことは、日韓会談に〝善隣友好〟の大義名分があったこととともに、その交渉の断続的経過によるものともみられ、いわゆるマスコミの論壇において継続的に反対論を盛り上げていこうとしても、会談自体が無期休会に入ったり、日本側とは無関係に韓国内の事情で中断されるといった状態があって、なかなか反復集中することが困難であった事情も一因とみられる」としていた。
会談自体が中断を繰り返したため、報道が長続きしなかったという分析なのだ。
また「同時に、第7次会談以降、日韓問題に対する政府与党側の集中的広報宣伝に効果があった」と、さりげなく書かれている。
第7回会談は、よく知られているように、経済協力の具体的金額を決めた大平正芳―金鍾泌会談(1962年)を受け、1964年12月3日に始まった。交渉は急転直下で妥結し、1965年6月22日に東京で日韓基本条約などの調印式が行われた。
調印までに、どんな広報宣伝が行われ、効果を挙げたのだろうか。これは、単に日韓会談のに留まらず、戦後における政府とメディアの関係にもつながる重要な視点といえる。50年前のことはいえ、特に敏感な問題を抱える日韓関係を考えるうえで、無視してはおけないだろう。
その手がかりが、日本の外務省から公開された外交文書に残されている。
昭和37年(1962年)11月7日付けの官房総務課参事官名で出されたものだ。マル秘の印が押され、外務省北東アジア課長のサインもあり、メディアや世論に影響を与えた政府広報の内容を伝えている。
こういった日韓国交正常化関連文書は、将来の北朝鮮との国交正常化を意識して公開されていなかった。外務省の秘密主義への批判が高まり、市民団体からの請求を受けて、順次、秘密指定が解除され、公開されている。
この外交文書も公開されており、日韓の市民や学者でつくる「日韓会談文書・全面公開を求める会」のホームページからダウンロードすることができる。
この文書は「日韓国交正常化PRに関し、自民党との調整に関する件」と題されている。要約すれば、今後の日韓会談のPRについて、政府と自民党が十分すりあわせを行う必要があり、その基本方針を再確認したいという内容だった。
国交正常化まで3年という時期に作成されており、交渉妥結の見通しが出てきたことを受けての、国内対策の動きだった。
この文書は当時の日韓会談をどう捉えていたのだろうか。
政府側は、日韓国交正常化に対する反対論を意識しつつ、日韓会談について「当たり前のことをやっている」と強調している。
そして、「韓国の赤化を防ぐという目的だとすると、かえって左翼陣営に攻撃材料を与える」と注意を呼びかけている。左翼陣営とは、社会党や共産党をはじめとする、日韓会談に反対していた勢力を指している。
その上で、左翼陣営が日韓会談に反対する理由について、(1)南北朝鮮の統一を阻害する。(2)韓国の現政権はファッショ政権であり、国交正常化を行う必要はない。(3)国交正常化は反共軍を作る目的―だと分析した。
そのうえで、「問題は請求権解決に存する」とし、「一般国民の日韓国交正常化の空気に動揺を来さしめないよう十分留意する必要がある」「請求権問題のPRについては、できる限り過去の懸案解決という色彩を伏せ、日韓の将来に目を向けるという線に立ち」進めるべきだ、と強調している。
国交正常化において、最大の難関は請求権問題だと本質を見抜いているが、あえて日韓の将来の重要性を説くことで、植民地支配の責任に関する日本国内の論議を抑え込もうとしていた。
この方針に従って、パンフレットや雑誌記事、ラジオやテレビ番組が制作され、国民に配布されていった。
当時作られた広報番組がどんなものだったかは、同じ外務省の文書「最近における日韓問題PR実績」に記録がある。
昭和1964年10月5日、外務省の条文局国内広報課が作成したものだ。
国交正常化交渉妥結まで、1年という時点であった。これも今は公開されている。
外務省の担当者や一般紙の記者を動員し、官製「PR」は集中的に行われていた。
この年に発行された印刷物は18件、ラジオ、テレビ放送は3件だった。政府の資金的バックアップがあったと考えて間違いないだろう。
たえばパンフレットでは「日韓問題」(韓国問題研究会、3月28日発行、5万部)がある。
「国民の外交」(外交協会機関紙)の4月号には、「日韓問題の解決を促進せん」という匿名による寄稿を行っていた。「日韓交渉早わかり」(韓国問題研究会)はこの年の10月に5万部の発行を予定していた。
自民党の広報紙である「自由民主」の4月5日号にも「日韓会談の背景と経緯」という匿名寄稿を行っていた。匿名寄稿については、誰が、誰の指示で行ったのか書かれていないが、政府関係者が行っていたのだろう。
この文書によれば、「特約通信」というメディアに対しては「10年交渉に終止符」という記事が掲載され、「記事指導」を行ったとある。記事に必要なデータや、記事の方向性について協力したものと思われる。
その他、「世界の動き」「世界ジャーナル」「特約通信」「国際問題」などの国際問題を扱う雑誌に関連の記事や座談会が掲載された。
これらの記事や座談会には、一般の日刊紙の記者が登場している。朝日新聞・真崎記者、毎日新聞・新井記者、東京新聞・鎌田記者などの名前がある。
いずれも日韓関係や韓国を専門とする記者であり、政府の意向を受けて執筆や、発言をしていた可能性が高い。
短波放送には前田北東アジア課長が直接出演して、「最近の韓国事情と日韓交渉」と題して話していた。この当時は、外務官僚が外交方針について、メディアを通じて直接説明することがあったようだ。
それでは、日韓交渉について、当時のメディアはどう伝えていたのだろうか。新聞紙面を追ってみる。
会談は1951年にスタートしている。52年2月15日には、最初の正式会談が日本の外務省で開かれた。
当初は全く注目されておらず、朝日新聞の16日付け朝刊は「友好と懸案処理 日韓会談始まる」というタイトルで、わずか14行の記事だった。
初回は両国代表があいさつを交わし、翌週から専門委員会が外交関係の樹立や漁業協定、韓国資産い関する請求権について協議すると伝えた。
その後も「議題5項目を採択」(16日付け夕刊)、「外交関係の文化委設置」(2月20日付け夕刊)、「ほぼ意見一致 日韓条約案」など、ベタ記事が淡々と続いている。「事実上打ち切り 日韓会談」という12行の記事が掲載されるのは4月27日付けの朝刊である。
53年10月第3回会談で、いわゆる久保田発言が行われ、会談が4年中断される。この時の報道をたどってみたい。
その前に、今でも日韓関係を語るうえで、「日本政府からの暴言」として引用される久保田発言とは、どんな内容だったのか。
当時の報道などによれば、第3回会談で、日本側は韓国に残した日本の財産問題について提起した。これは、韓国側が「植民地支配への賠償」を求めたことに対するカウンターとして提起されたものだった。
韓国側は「日本側が36年間の(朝鮮半島での)蓄積を返せというならば、韓国側も36年間の被害を清算せよと言うしかない」と日本側に反論した。
これに対して日本側の代表だった外務省参与の久保田貫一郎は15日、こう述べた。
「日本としても朝鮮の鉄道や港を作ったり農地を造成したりしたし、大蔵省は当時多い年で2000万円も持ち出している。これらを返してもらえれば韓国側の請求権と相殺できるではないか。これから先言うことは記録をとらないでほしいが、当時日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」と述べた。
これに対して韓国側は、「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話をしているのか。日本人が来なければ我々はもっとよくやっていたかもしれない。1000万円とか2000万円とかの補助は韓国人のために出したのではなく、日本人のために出したもので、その金で警察や刑務所をつくったではないか」と強く反発し、交渉は中断に追い込まれた。
日韓両政府は声明を出して、久保田発言をめぐる会談の中断について、相手側に責任を押しつけた。
この久保田発言について、意外にも当時の新聞は地味な扱いだった。
最も詳しく伝えたのは朝日新聞だった。10月22日付け紙面で、「久保田発言の議事録」との見出しの記事を掲載した。
リードの部分では「日韓会談は21日、ついに決裂した」「決裂の直接の原因は15日の財産請求権分科会委員会における日本側久保田代表の発言を韓国側が不当としたこと」だとした。
そして「問題の久保田発言とはどんなものか、外務省の議事録に残された同氏と韓国側代表との応酬(要旨)を次ぎにかかげて、読者の資料に供するものとする」としていた。
つまり、発言について、新聞社としては判断はせず、記録だけを掲載する方法を取ったのだった。
毎日新聞は10月21日付けで、久保田発言に関連し、韓国側が反発しており、交渉が決裂しそうだという観測記事を1面に掲載した。
「韓国側が挙げた久保田発言の問題点」として、(1)韓国独立の時期はサンフランシスコ平和条約発効時点。(2)終戦後に連合国が在韓日本人を日本に強制送還し、在韓日本資産を没収したことは国際法違反。(3)1943年のカイロ宣言で「朝鮮人民が奴隷状態に置かれていた」と表現したが、「奴隷状態」は妥当ではない。(4)日本の総督府政治は韓国自体に対しても恩恵を与えた―と書いている。
1~3までは、会談を進める上での認識の違いだ。4は、「植民地支配で日本はいいこともした」というもので、やや性格が違っている。毎日新聞は、この発言を最後に短く挙げており、メディアとして重視していなかったことが分かる。
「遺憾なる日韓会談の決裂」と出した朝日新聞の10月22日付け社説は、「(日本の)政府声明にもあるとおり、韓国側の態度には『ささたる(ママ)言辞をことさら曲げ、会談全体を一方的に破壊した』ものと見られる節があるのは誠に遺憾である」と、日本政府の立場を代弁する内容だった。
「日韓会談の決裂」と題した同日付けの読売新聞社説は、「第1圧迫があったとしても、日本は戦争によって朝鮮を領有したのではない。朝鮮統治に功罪両面があったのは事実」とし、韓国側に「朝鮮は連合国ではなかったから、賠償を要求する法的根拠もない。日本はこれに『政治的考慮を加える』と言っているのだから、韓国も感情論を捨ててもっと政治的に交渉を捨てるべきである」と高姿勢で呼びかけている。この社説は、日本政府が主張する植民地支配の「功績論」に完全に同調していた。
私が調べた範囲では、久保田発言が行われた直後に、発言内容を問題視し、強くいさめる内容の記事は見つけられなかった。
「植民地恩恵論」は、日本の外務当局や政権の本音で、たびたび交渉が中断する潜在的な理由となった。
日本は朝鮮半島のインフラを整備し、国家としての体系を整備した。さらに、欧米各国も植民地を持っていたが、その統治について謝罪した国はない。
だから、韓国との国交正常化交渉でも、安易には妥協しない―という姿勢を貫いたのだった。
この基本的認識は、現在に至るまで日本政府に受け継がれている。今、政治家や官僚が公の場で同じ発言をしたら、責任を追及されるのは間違いないが、当時はそうではなかった。
久保田発言の「植民地恩恵論」を問題視したメディアがほとんどなく、むしろ援護していたのは、今から見ると驚きだが、社会の雰囲気も反映していたといえよう。
むしろ一般の市民の方が、久保田発言の問題を敏感に感じていたようだ。朝日新聞の10月26日付けの投書欄には、東京の著述業、山本昌二という人が、こう書いている。
少し長いが引用してみる。
「新聞に伝えられる日韓会談の久保田発言は言語道断である。韓国の国際的ダダっ子ぶりは国連でさえもてあましているのに、その相手に真っ向から論議をいどんだところで、どうなるものでもないのだ」
さらに「ことにいけないのは『日本が韓国を統治していなかったらもっと悪い国に占領された』という意味の発言である、他人の家にドロボウに入っておいて、オレが入らなかったらもっとすごい強盗が入ったゾ―というに等しい言い草はなかろう。(中略)最も大切なことは、日本が過去において韓国を侵略したという認識であり、罪の感覚だ」と強調している。
一般の市民も、久保田発言の傲慢さを感じていた。
新聞は、会談の妥結が近づいた64年ごろから、「譲歩外交批判」を盛んに始めている。
64年12月3日付の朝日新聞は「『日韓交渉』は厳密に言って外交交渉ではないという見方が支配的だ」と前置きし、「日韓交渉は日本側の一方的譲歩の連続の歴史であり、その名に値しない」と決めつけた。
同年3月31日の毎日新聞社説も「これ以上の譲歩は、国民感情からも到底納得しえないものを感じる」と強調していた。
韓国側への譲歩を牽制する狙いだったとみていいだろう。
日韓会談は、曲折を経ながら1965年6月22日、日韓条約と関連の協定の調印が行われた。
調印翌日の新聞の報道を見てみる。ほとんどの新聞が、東京で行われた日韓条約締結のニュースを1面で扱った。
まずは合意の評価、つまりどちらの国が得をしたか、損をしたかについての論評が目立つ。
さらに、互いの国で条約が批准されるまでの問題点、また、韓国市場の日本にとっての経済的なメリットが挙げられている。
またベトナム戦争や中国の核実験という当時の国際情勢を踏まえ「韓国は共産化を防ぐ防波堤になる」との観点の記事もあった。
具体的な記事を見てみよう。日韓条約が多岐にわたる内容だったため、同じ新聞の中でも、肯定的、否定的見解が分かれている。
朝日新聞は「日韓調印と今後の課題」と出した同日の社説で、「両国の間には、数十年にわたった不幸な関係から、種々の懸念がわだかまっていたが、今後両国は対等の隣国として、善隣友好の関係をひらくべき手はずを整えたわけである」と、一応肯定的な評価をした。
ただし、社説の中に出てくる「対等の隣国」という表現には、日本側は過去の清算を終えた。韓国には遠慮せず、対等の関係になるのだとの開き直りに近いニュアンスも感じ取れる。
さらに基本条約の具体的内容については、「交渉の過程では、日本側はかずかずの譲歩を余儀なくされている。特に数日間の最終折衝では、さきの仮調印で合意ずみとなっていた事柄にさえ、韓国側が新たな要求を持ち出して、日本側の譲歩をせまる場面さえあった」と、ここにも「交渉譲歩論」が顔を見せている。
どこで譲歩したのかについて、朝日新聞の社説は漁業問題を挙げている。「漁業協定の有効期限の問題では韓国側の主張に歩み寄ったばかりか、日韓両国監視船による共同取締の問題では、日本側が主張した旗国主義を大きく譲って、韓国側のオブザーバーを日本側監視船に臨時乗船させることとなった」と主張した。
日韓条約は、両国が共同で管理する水域を定め、その水域での資源保護をうたった。この問題をめぐって韓国側の主張を大きく取り入れたというのだ。
さらに、1952年1月に、突然李承晩ラインが引かれ、「自国の領土である」と日本が主張する竹島(韓国名・独島)を韓国が支配している点についても、「調印間際の22日午後まで両国外相が交渉を続けたすえ、竹島処理という具体的な表現すら避けて、将来両国間の紛争を処理する方法と取り決めるにとどまった。事実上、竹島問題をタナ上げするものと言わざるをえず、竹島を含めて一括解決という当初の方針から大幅に後退したものであることは、言わずして明らかであろう」と批判している。
これらの点を指摘した上で、日韓条約が、両国の和解や経済協力に役立つとし、「北朝鮮とも友好関係を増進し、将来正常な関係を樹立すべきだ」と結んでいる。
一方で、3面にはソウル特派員による現地からのレポートが掲載されている。「知識層は沈んだ表情」「日韓条約への反応 賛否はなお対立」との見出しで、韓国の与党内には、日韓条約締結について、日本からの経済侵略を警戒する声がある一方で、「正常な隣国関係ができた」と歓迎していると伝えた。
一方で見出しになった韓国の知識層の反応については「早すぎた調印とみて、沈んだ表情をしめすものが少なくなかった」と簡単に触れているだけだった。
産経新聞は「調印後の日韓関係」と出した社説で、やはり「請求権から竹島までほとんど一方的に日本が譲歩したとの感が強い」と断じた。この理由について「韓国国内の反対運動が、日本の5倍も10倍も深刻であるということによって決定されているところに特徴がある」として、韓国側からの圧力を理由に挙げた。
そういったマイナス面を認めたうえで、「正常化後の日韓関係に大きな役割を期待されるのは経済協力である」とし、経済関係拡大が関係改善のカギを握るとの見方を取った。
1面のコラムでは「日本側には譲歩しすぎという意見があるが、それにもかかわらず、韓国の学生と与党は『対日屈辱外交』だといって、交渉の妥結を受け入れようとしない」と韓国側の姿勢を批判した。
朝日新聞、産経新聞は日本側の譲歩に焦点を当てており、批判的なトーンが目立つ。
毎日新聞は23日朝刊で「日韓条約の調印と今後」と題した社説を掲載した。日本側にも一定の成果があったとの見方を示している。
「今度の日韓交渉は、譲歩するのは日本側だけで、外交交渉の一般原則であるギブ・アンド・テイクを貫くこと自体が無理な性格の交渉であった」とし、過去の歴史から、日本側の譲歩は仕方なかったとの見方を示している。
さらに、日韓併合条約など、過去に日韓間で結ばれた旧条約や協定の廃棄問題に関連し「1910年8月22日以前に日韓両国で締結した条約および協定は『もはや無効であることが確認される』となっている」
「『もはや』とは、いったい時間的にいつのことなのか、条約文としては異例であり、まことにあいまいな表現というほかはない。これもまた、将来具体的な解釈についてめんどうの起こりうるところだろう」とい指摘し、歴史認識を避けたことによるトラブルを予測していた。
また交渉が14年と長引いたことについては「国際情勢が調印促進」という1面の解説記事が、当時の状況をよく説明している。
その記事によれば今回の日韓会談は、「通常の『2国間交渉』ではなく、旧宗主国対旧植民地という特殊な性格を持っていたこと。さらにフランスと旧仏領アフリカ植民地との関係とは違って、相手方がかなり高度な『中進国家』であり、かつ分断国家であったというところから来ている」と説明した。
そして、米国からの強い要請を受けて「韓国内でのあきらめムードが加わって半年にわたる折衝の結果、調印にこぎつけた」としている。
この記事は、「李ラインの廃止を実現したのはまずまずの成果」と評価し、日本からの有償、無償支援について、「過去36年の圧政の清算にしては安すぎる」という韓国内の不満の声も紹介している。
毎日新聞は、全体的に、日本の思惑通りの交渉結果だったとしている。
日本経済新聞の社説は、日韓条約は必要であり、合意内容を一つ一つ評価するよりも、全体の意義をみるべきだという主張だった。
「日韓調印の今後に望む課題と心構え」と題されており、「日韓会談は日韓間の懸案や問題について、ただ勝ち負けを争うことではない。日韓に新しい国交を樹立し、両国が台頭な立場で友好、協力、共存共栄の関係を設定することにある」と強調した。
「調印された一つ一つの内容に間違いがないことを明らかにし、新しい国交の発効まで冷静、慎重、急ぐより国民の納得を旨として行動すべきである」、「妥結した日韓会談、調印された文書は日韓関係の終わりではなく、始まりである」と呼びかけた。
東京新聞の、「日韓正常化への調印成る」とする社説は、日経新聞に近いスタンスだった。
「調印式典のはなやかさ、式後の祝賀位階における両国代表の喜びに満ちた表情と、街頭デモの険悪な空気との鋭いコントラストをどうみるか、ある意味でそこに『国民不在の外交』という非難を浴びせることは容易であるかもしれない。しかし、われわれは日韓交渉はだれかが、いつか勇気ある決断を下さなければならない性質のものであった」と評価した。
そして、日韓の国交正常化が南北統一の支障になるとの批判については「統一にいたる現実的な道は、韓国側が統一に向かって一歩進められるような自信のある国になることである」と説き、むしろ統一にとって有利に働くと論理を展開した。
「新時代を迎えた日韓関係」という解説記事の中では、「戦後処理の大きな懸案が片付いたことから、今後は長期的には日中関係の位置付け、短期的にはアジア関係の確立に全力を注ぐ」として、日中国交正常化に力を注ぐ日本政府の今後の外交方針を解説していた。(後略)
ご関心のあるかたは、この本に全文載っています。

参考文献
朝日、毎日、読売、日本経済、産経、東京、北海道、神戸、西日本、神奈川、アカハタの各新聞スクラップ。
「日韓条約をめぐる内外の動向」 内閣官房内閣調査室編 昭和41年7月
「検証『日韓報道』ペンの懸け橋」 『検証新聞報道』編集委員会 大村書店1995年7月20日
「検証 日韓会談」高崎宗司著 岩波新書1996年12月20日
「私は見た 韓国の内幕」 西村敏夫著 朝日新聞社 昭和40年10月15日
「日韓条約が置き去りにしたもの 植民地責任と真の友好」 吉岡吉典著、吉澤文寿著 大月書店 2014年11月20日
引用部分の一部は理解を助けるため丸括弧で補足している。