数年前の原稿です。
今年は日本にとって戦後70年、韓国とは1965年の国交正常化から50年目に当たる。日本には、朝鮮半島にルーツを持つ人が数多く住む。中でも最南端・済州島から渡ってきた人たちに焦点を当て、日韓の歴史の一端を学んでみよう。
日本は1910年、日韓併合条約で朝鮮半島を支配下においた。当初は労働者として日本に住むことは厳しく制限されていたが、第1次世界大戦の後の好景気で安い労働力が必要となり、1922年の暮れから渡航が自由化された。
もっとも活発な往来があったのが済州島だ。周囲200キロ。楕円形をした火山島だ。今はリゾート地として有名だが、戦前は火山性の土地が災いして、水田による稲作ができず、農作物の生産も難しかった。
済州島と大阪を結んでいたのが「君ヶ代丸」と呼ばれる船だった。1922年末から1945年まで運行された。
『越境する民』(杉原達・著、新幹社)によれば、ピーク時の1933年には、済州島民2万9208人が君ヶ代丸などに乗って大阪に上陸した。島民の4人に1人が日本に来ていた時代もあった。
朝鮮半島から日本への出稼ぎは、かなり早くからあった。たとえば海に潜って貝などを集める海女の場合、技術が日本を上回っていたため、1903年、東京・三宅島に出稼ぎにいったという記録がある。1930年前後には1500人以上に上った。戦後は密航や韓国ビザで入国して、違法に働く女性もいた。往復の交通費以上稼がなくてはならないため、日本人より大きな鉛の重しを身に付け、深く潜ったという。『海を越える済州島の海女』(李善愛・著、明石書店)
海女よりも遙かに需要が多かったのが製糸工女だった。『風の慟哭』(金賛汀・著、田畑書店)は、朝鮮女工たちの生活を詳細に記録している。
ある工場では朝5時から深夜まで働かせた。夜になると工場の窓に黒い幕が張られ、働いていることを隠した。
給料は日本人より低く設定してあり、実際に出稼ぎに行った人によれば「食べるだけで、いくらも手元に残らなかった」(同書より)という。
昭和5年の不況では、朝鮮女工は真っ先に解雇の対象となった。大阪・岸和田にあった岸和田紡績では、女工たちがストライキを起こした。昼、夕食時には30分紡績の機械を止める、布団は夏用と冬用を支給してほしい、寝具はひと月月に1回洗ってほしいといった内容だった。どんな待遇を受けていたが伝わってくる。
その他、炭鉱夫、砂利人夫、土工としても働いた。大半が農家出身で技術を持っておらず、苛酷な土木作業に就いた。都市のインフラは彼らの手で建設されたわけだ。
大阪市が、朝鮮人労働者の実態を調べた報告書がある。労働者たちは「飯と塩と野菜とで生きて」いた。「大阪で心細い生活をするより、故郷に帰ったらどうか」と調査担当者が聞くと、「暮らしが苦しいのは同じ事です。どうせ同じなら、大阪の明るい町で暮らしたい」と答えたという。『第一次世界大戦と日本』(井上寿一・著、講談社現代新書)
「陸地(朝鮮半島本土)の人と済州島の人は反目していた。島出身者と分かると蔑視、集団的いやがらせ、いじめ行為があった」『異邦人は君が代丸に乗って』(金賛汀・著、岩波新書)という証言もある。済州島出身者は同じ地区に住んだ。大阪では猪飼野、東京では三河島だった。
4・3事件の影響も大きい。1948年4月3日、済州島で起こった島民の蜂起を指し、中央政府の武力鎮圧で3万人が犠牲となった。『火山島』(金石範・著、文藝春秋)という長編小説に描かれている。近年真相解明の動きが起きている。日本国内にも同島出身者による「済州島4・3事件を考える会」があり、毎年追悼行事が行われている。
時代を少し元に戻そう。日本は、昭和に入って不況となる。
この時、真っ先に解雇されたのは朝鮮半島からの労働者だった。しかし、日本で仕事を探したい人たちは、小さな密航船に乗って来た。台風に出くわし、船が転覆するケースもあった。
この時代に日本に来た人たちは、半島出身の第1世代。その後は、日本に留学してそのまま住み着いたり、自分の可能性を求めて渡ってきた第2世代、第3世代が増えていくことになる。「高」という姓を持つ人は、大体が済州島出身だ。
日本から済州島に送られたものもある。温州みかんの苗木だった。1954年から日本産苗木の輸入が始まり、1964年まで約15万本が輸入された。
1965年の日韓国交正常化後、在日韓国人の祖国訪問が活発になった。島民の生活向上に役に立つことが分かると、島出身者が帰郷する時、みかんの苗木を持って行き、ますます増えた。みかんの木は、 「大学の木」「黄金の木」とも呼ばれた。みかんを栽培すれば子弟を大学に進学させることができるという意味だった。みかんは今、済州島の特産品として人気が高い。
日本との交流が、これからも様々な形で「実」を結んでほしい。
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